30代で実家ぐらし、仕事が続かない男の日々(あぎるブログ)

1985年生まれの34歳。働けない、稼げない、人と接するのがつらい。noteで日記を公開している→https://goo.gl/Jrkznz

働かない実家暮らしの未来

f:id:agiru64:20200325220504j:plain

実家暮らしは、労働しなくても生きられる。

 

親に養ってもらえばいい。家のカギを奪われない限り、家に入ることができる。親がうるさいのなら、親が寝てから帰宅し、親が起きる前に出かければいい。食べ物は家のものをこっそり食べる。実家さえあれば死ぬことはない。

 

それが無理になったら、どこかに相談。役所でもNPOでもいろいろある。仕事を紹介されればそこに行く。続けられるなら続けるし、つらければ退職する。退職したらまた相談に行けばいい。別の何かを紹介してくれるだろう。

 

退職をくり返すとどうなるか。最終的には生活保護になるだろうが、そこに至るまでにもいろいろある。相談に行けば、そのあたりのことも教えてくれるだろう。

 

食べることに関しては、たとえば東京都区内では毎日炊き出しがおこなわれている。これさえあれば餓死はない。現代日本では餓死しないようになっている。

 

知人の援助も得られる。ここ数年、僕は社会に適応しない人たちと会ってきた。ネット上にもそうした界隈がある。彼らに相談することもできる。泊まり歩くこともできる。

 

「他人に迷惑をかけて平気なのか」という意見が来そうだが、何に迷惑と感じるかは人による。当事者同士が納得しているのであれば問題ない。


スポンサードリンク
 

 

顔出しYouTuberになるのもいい。

 

今のところ、僕はラジオしか投稿していない。それで約150人のチャンネル登録者を得た(2年以上かかった)。顔を出して話すスタイルにすれば、今まで以上に伸びていくだろう。

 

150人では広告を貼れないため、収益はない。だから僕はYouTubeで一銭も稼げていない。しかしYouTubeそのもので稼げなくてもいいのだ。自分自身を広めることができればいい。

 

これまでに数回、polcaを利用して動画に対する「おひねり」を求めた。そして何千円かいただいた。こういうのでいい。現金でなくとも、動画を観た人が何かをくだされば、それは動画から得た収益と言える。

 

僕にはこのブログもある。noteで日記の販売もおこなっている。これらで月に数千円稼いでいる。僕には既に何百人ものファンがいるのだ。それはラジオと文章だけで獲得した。これに加えて顔も出せば、収入は今よりも増えていくだろう。

 

とは言っても、ラジオも文章も金儲けのためにやっているわけではない。僕がここで言いたかったのは、僕には既に助けてくれる人たちが大勢いるということだ。

 

これは「お恵み」ではない。僕は書いたり話したりする。それを読んだり聴いたりした人が、僕に何かをくれる。「ギブ・アンド・テイク」だ。

 

【僕のネット上での活動】

ラジオ:あぎるラジオ - YouTube

日記:https://note.mu/agimuse/m/m473817a36ecb

ツイッター:https://twitter.com/agimuse

 

最後に。僕は遠い未来のことを考えることができない。何しろ人間は突然死ぬ。今日死ぬかもしれないのだ。僕は最近頭痛に悩まされている。きっと脳腫瘍だ、もう長くない。そう考えて怯えている。

 

高い確率で命に別条はないだろう。しかし、ことほどさように体調不良を死と結びつけて考えている。これでどうして何年も先のことまで考えられるだろうか。

 

かつてニート界のスターだったpha氏の言葉を紹介したい。

 

まあ、何十年も先のことなんてどうなるか分からないし、とりあえず今なんとかなっているんならそれでいい。今考えてもどうしようもないことは、どうにもならなくなり始めてから考えよう。(『ニートの歩き方』、163ページ)

 

僕もそう思う。もう一つ、明治時代の架空ニート、長井代助の言葉。

 

無論食うに困る様(よう)になれば、何時でも降参するさ。然(しか)し今日に不自由のないものが、何を苦しんで劣等な経験を甞(な)めるものか。印度人が外套を着て、冬の来た時の用心をすると同じ事だもの(夏目漱石『それから』、フリガナは引用者)

 

外套の準備は秋に始めればいい。夏では試着さえ難しい。大汗かいて、いい外套を選べるものか。代助が職探しを始めたのは、親に勘当された後だった。


スポンサードリンク
 

 

労働しない生活がベスト

f:id:agiru64:20200223213422j:plain

もう2年近く、ろくに働かずにのらくらしている。どうもこれが理想の生活に近い。

 

日向ぼっこ、散歩、読書、インターネット。あとは誰かとダベることができれば幸せ。外で働くことも、家事も、ゼロにできればベストだ。

 

こういう生活は、自分で稼がない限り、誰かの稼ぎに頼ることになる。稼ぐことが好きな人に養ってもらえればいいが、仕方なく稼いでいる場合、単に嫌なことを他人に押し付けているだけになる。これはベストではない。

 

稼ぐのが好きな人に養ってもらえるようになったとしても、その人のことが嫌いだと厳しい。「別れたら生活できなくなるから嫌々言うことを聞いている」なんて状態はしんどい。

 

世の中には「働きたい」と言う人がいる。こういう状態を避けたいという意味で言っている場合がある。この意味なら、労働がつらくて仕方がない僕でも理解できる。

 

僕にとっては、労働しない生活がベスト。しかしそれでは必要なお金が入ってこない。代わりに誰かに稼いでもらわないといけない。それはベストではない。

 

ここまではわかっている。ここを起点として、最善の道を探っている。


スポンサードリンク
 

 

【筆者の活動】

日記:https://note.mu/agimuse/m/m473817a36ecb

ツイッター:https://twitter.com/agimuse

ラジオ:あぎるラジオ - YouTube

「ラブライブ!」パネル撤去は仕方ない

f:id:agiru64:20200222015131j:plain

アニメ「ラブライブ!サンシャイン!!」のパネルが、指摘を受けて撤去される騒動があった。

 

 

僕はこの作品のファンだが「この絵はまずい」という立場だ。

 

記事によると、寄せられた指摘は「スカートが透けているように見える」というもの。確かに女性キャラクターのスカートに影が描かれ、股の形が浮かび上がっている。

 

普段はこのような影は描かれていない。その上、スカート丈もここまで短くない。つまりいつも以上に性的なデザインになっている。

 

今回は一般の団体(JAなんすん)とのコラボで、特産品のみかんをPRするために実現した企画だ。ファン向けグッズとは違って、老若男女の目に触れる。性に関わる部分には、いつも以上に慎重になるべきだった。それなのに、よりによって、普段よりも挑戦的な絵を出してしまった。

 

寄せられた批判は、今回の絵がその場にふさわしくないということだ。つまりTPOの問題であって、作品やキャラクターじたいが否定されているわけではない。

 

今の沼津の街を見ればわかる。この作品は沼津が舞台となっている。そのことから、作品と街のコラボが実現しており、市内のあちこちにキャラクターの絵が飾られている。もし作品やキャラクターが受け入れられていないのであれば、こんなことにはなっていない。

 

この騒動を「フェミニスト対オタク」といった見方をしている人がいるが、適切ではない。女性の性を強調した絵を問題視することはフェミニズムの一部だが、そういうものを公共の場にさらすべきではないという考えは、一般的なものだ。

 

だから「一般人対オタク」のほうが近い。しかしこれも不正確だ。オタクがみんな今回の絵を肯定しているわけではない。特に、作品が広く一般に受け入れられることを願うファンにとっては、今回のような騒動は、特に避けてほしかった。

 

過去にあった「宇崎ちゃん」献血ポスター騒動も「駅乃みちか」騒動も、TPOの問題だった(これらも「フェミニスト対オタク」ととらえる人が続出して泥仕合になっていた。同じことがくり返されている)。

 

関係者は過去の事例を見て行動してほしい。再び同じことが起きないよう願っている。


スポンサードリンク
 

【筆者の活動】

日記:https://note.mu/agimuse/m/m473817a36ecb

ツイッター:https://twitter.com/agimuse

ラジオ:あぎるラジオ - YouTube

非日常は自分でつくる

f:id:agiru64:20200121183402j:plain

年末年始が苦手だ。

 

人間には非日常が必要といわれる。日常はつらいものだから、ガス抜きが欠かせない。年末年始や祭りなどがそれに当たる。その理屈は理解はできるが、僕には必要ない。

 

年末年始は、何といっても不安なのだ。病院が閉まるのが一番つらい。大きな病気を抱えているわけではないが、体調が悪くなったらどうしようと思ってしまう。ちょっとした体の異変を感じてはおびえている。

 

その上、この期間は多くの人が休みだから、どこへ行っても混雑する。不安で不便で行動しにくい。いいことがない。

 

そもそも日本の正月文化じたいが好きではない。「良いお年を」も「あけましておめでとう」もイヤ。松飾りを見ると憂鬱になる。おせちも雑煮もおいしくない。どこへ行っても琴による「春の海」が流れていてウンザリする。広告やテレビで見かける着物姿の男女もダサい。早く普段着に着替えてほしい。

 

土日祝は仕事が休みだから非日常。そういう人も多いだろう。でも、もし水曜・木曜が休みなら、水曜・木曜が非日常になる。土日祝が非日常なのではなく、休日が非日常なのだ。

 

非日常は他者から与えられるものではない。自分でつくるものだ。普段行かない場所に行くだけでいい。ショッピングモール、レンタルビデオ店、駅の反対側、いつもと逆方向の駅……。普段読まない本を読むだけでも非日常だろう。普段着ない服を着ることも非日常になる。

 

地元の祭りを待ちわびる必要はない。祭りなど、探せばどこでも開催されている。古本市や古着市だって祭りだ。開催は土日祝が多いが、長期間催されているものもある。美術館や博物館の特別展は数ヶ月単位で開かれている。

 

今は江戸時代ではないのだ。村や藩から抜け出せなかった時代には、地元の祭りがガス抜きとして必要だった。今は違う。自転車があれば3キロでも5キロでも移動できる。2300円あれば電車やバスを利用して隣の街まで行ける。普段近所のコンビニぐらいしか行かない人間なら、別の市町村など異世界だ。

 

普段しないことをする。普段行かないところへ行く。非日常は自分でつくれるのだ。他者から与えられる非日常を、僕は必要としない。


スポンサードリンク
 

 

【筆者の活動】

日記:https://note.mu/agimuse/m/m473817a36ecb

ツイッター:https://twitter.com/agimuse

ラジオ:あぎるラジオ - YouTube

「ペット・サウンズ」は名盤ではない

f:id:agiru64:20200119211828j:plain

アメリカのロックバンド「ビーチ・ボーイズ」のファンだ。高校時代から愛聴している。

 

ただ、どうも僕の評価は一般的なものと違う。評論家もミュージシャンもファンも「ペット・サウンズ」(1966年発表)や「スマイル」(67年発表予定だったが頓挫)を頂点と考えているようだ。雑誌でも映像でも、そのあたりに焦点が当てられる。僕はそうではない。

 

ビーチ・ボーイズは62年にメジャーデビューした。当初はサーフィンや車の歌を歌っていた。基本はロックンロール。多種多様な楽器が「これでもか」と詰め込まれたサウンドも特徴的だったが、とにかくキャッチーだった。親しみやすい音のくり返しだった。

 

僕は高校生の時に「サーフィン・U.S.A.」(63年)や「アイ・ゲット・アラウンド」(64年)を耳にして、もっと聴きたいと思った。そこで調べてみると、どうやら彼らの最高傑作は「ペット・サウンズ」(66年)というアルバムのようだ。それで聴いてみた。

 

何だこれは。乗れないし、心も打たれない。何曲かはいいものの、基本的に退屈。サウンドは凝っているが、そもそも曲が良くない。元が悪ければ、どれだけ装飾を施してもどうにもならない。

 

それでビーチ・ボーイズから離れてしまった。数年後にベスト盤を聴いてファンになるのだが、「ペット・サウンズ」を聴いたばかりに数年遅れてしまった。

 

別にこのアルバムが好きな人がいてもいい。問題はそういう人が多すぎることだ。「ビーチ・ボーイズ=ペット・サウンズ」というレベルになっている。


スポンサードリンク
 

 

「ペット・サウンズ」やその次の「スマイル」(66年~67年)が世間では頂点とされているようだ。でも僕は「迷走」だと思っている。68年の「フレンズ」を聴いた時にはホッとした。変に凝ったサウンドから、シンプルなサウンドに回帰していたからだ。

 

「ペット・サウンズ」「スマイル」以前のビーチ・ボーイズは素晴らしい。これらを経たビーチ・ボーイズも良い(つまり66年と67年だけが良くない)。

 

「フレンズ」の後の「20/20」(69年)も粒ぞろい。「サンフラワー」(70年)などは、これを最高傑作とする人がいてもおかしくない。80年の「キーピン・ザ・サマー・アライヴ」は60年代の黄金期に肩を並べる名盤だと思っている。

 

70年代以降はアルバム単位では弱いが、名曲は多い。「ザ・トレイダー」「カリフォルニア・サーガ/カリフォルニア」「レディ・リンダ」等々。もしこれらの曲を知らないのなら「ビーチ・ボーイズの最高傑作は○○」「ビーチ・ボーイズは『スマイル』で終わった」などと口にする資格はない。

 

くりかえしになるが「ペット・サウンズ」「スマイル」を否定しているわけではない。過大評価されているとは思うが、この記事はそれを唱えるために書いているわけではない。これらを頂点として他を軽んじるような聴かれ方に異議があるのだ。

 

僕は64年の「オール・サマー・ロング」が最高傑作だと思っている。「ガールズ・オン・ザ・ビーチ」(「浜辺の乙女」)など、実に素晴らしい。

オール・サマー・ロング +3

オール・サマー・ロング +3

 

 

これだけ素晴らしいハーモニーがあるのに、どうして彼ら(というかブライアン・ウィルソン)は「ペット・サウンズ」「スマイル」のような奇妙なサウンドに向かっていったのか。いや、それはこの記事のテーマではない。僕はあれらの「迷盤」が最高傑作とされ、前後の「名盤」が軽んじられている現状を嘆いているのだ。

 

「トゥデイ」(65年)でも「サマー・デイズ」(同)でも、「○○(曲名)には『ペット・サウンズ』の萌芽が見られる」といったことを書く人がいる。それではまるで「ペット・サウンズ」以前が助走期間だったみたいではないか。「トゥデイ」も「サマー・デイズ」も、そのままで素晴らしいのだ。

 

とにかく昨今は「ペット・サウンズ」「スマイル」ばかりに光を当て過ぎだ。そういった記事や映像が量産され続けている。この記事を読んだあなたは、世間のビーチ・ボーイズ評を鵜呑みにせず、1枚ずつしっかりと聴いていってもらいたい。

 

【筆者の活動】

日記:https://note.mu/agimuse/m/m473817a36ecb

ツイッター:https://twitter.com/agimuse

ラジオ:あぎるラジオ - YouTube

 


スポンサードリンク
 

僕は差別に「No」と言う

f:id:agiru64:20200111011100j:plain

どうしても排外的な書き込みが気になる。

 

無視すればいいと言われるが、それは最適な行動なのだろうか。何も言わないことは罪なのではないか。良くないものには「良くない」と発信していくほうがいいと思う。

 

「外国人が嫌い」という感情を発信することに意義はない。外国人のどの点に問題があるのか述べてもらいたい。そうすることで、初めて他者にとって意義のある言葉となる。

 

問題点を具体的に挙げてもらえば、それが人種の問題ではないとわかるだろう。たとえば「○○人はマナーが悪い」という意見が出たとする。この場合、対処すべきはマナーの悪い個人だ。

 

「○○人は嫌いだ」と発信をする人は、それに同調する人間と仲良くなって完結しているのかもしれない。でも嫌いと言われた○○人はどう思うか。あなたは仲間ができて嬉しいかもしれないが、そのために○○人全員を傷つけている。何千万、何億もの人々を傷つけている。

 

あなたがこれまでに出会った日本人は、すべて悪人だったか。それともすべて善人だったか。どちらでもないはずだ。多種多様だっただろう。それはどの国でも同じことだ。

 

「日本に来るな」「国へ帰れ」。こんなことを言っていたら、あなたの味方は日本人だけになる。それも心ある日本人はあなたと距離を置く。あなたの周りには、日本人の排外主義者しかいなくなる。世界中のただ一国、更にその中の少数の人間だけになる。

 

あなたがヘイトスピーチをするほど、あなたの味方は減っていく。生きづらさが増していく。

 

今これを読んでいる人は排外主義者ではないだろう。ただ彼らをネットで見ない日はない。彼らに対する自分なりの意見は持っていたほうがいいように思う。この記事をその一助としてほしい。

 

【筆者の活動】

日記:https://note.mu/agimuse/m/m473817a36ecb

ツイッター:https://twitter.com/agimuse

ラジオ:あぎるラジオ - YouTube


スポンサードリンク
 

一人でいるときこそ、何かとつながっている

f:id:agiru64:20200102010509j:plain

人といると疲れる。

 

自分ばかり話さないよう、相手に話をさせる。興味のある話ばかりではない。「つまらないからやめて」とは言えないから、ジッと話し終わるのを待つ。

 

ようやく言葉が途切れてホッとする。だが「ふーん」で終わらせては失礼だ。そこで興味がないのに質問してしまう。また退屈な話が続く。

 

かと言って、自分ばかり話すのもつらい。途中で話し飽きても「もう嫌になったからやめるね」とは言えない。ウンザリした表情が出ないように努める。人といると、こうした無理を重ねてしまう。

 

そもそも、大きな声で話さないといけないのがつらい。僕がちょうどいいと思う音量では、他人に届かないのだ。いつも小さな声でボソボソとしゃべっていたい。

 

誰かといるより一人がいい。一人でいるときこそ、何かとつながっていると感じる。

 

たとえば空を見上げる。そして遠い国や、既にこの世にない人々に思いを馳せる。こういうことは誰かと一緒にいたらできない。

 

平安貴族が見た、春の夜明けに山の輪郭がだんだん白んでいく様子を、僕らも見ている。

 

枝や草花が風で揺れる。あれは彼らの表情だ。ビュウビュウ、バサバサ鳴るのは、彼らの声だ。

 

植物は自分からは話さない。語りかけると黙って聴いてくれる。

 

いつも誰かといたがる人は、見えるものにこだわりすぎている。金子みすゞではないが、見えぬものでもあるんだよ。

 

【筆者の活動】

日記:https://note.mu/agimuse/m/m473817a36ecb

ツイッター:https://twitter.com/agimuse

ラジオ:あぎるラジオ - YouTube


スポンサードリンク
 

人種問題と自分の幸せの関係

f:id:agiru64:20191227231100j:plain

外国人を排斥する考え方の人がいる。

 

そういう人が、もし外国人に親切にされたり、命を助けられたり、惚れたりしたらどうなるのだろう。中国人や韓国人を憎む人がいるが、見た目では日本人と区別がつかないことが多い。外国人とわかった瞬間に恋も冷めるのだろうか。

 

日常生活で外国人と接することはないのだろうか。100人の外国人と接して100人が意地悪などということはありえない。ということは、排斥論者は単に彼らとの接触が少ないだけではないか。

 

僕も人付き合いの少ない人間ではあるが、大学時代に勉強熱心な韓国人留学生と言葉を交わした。優しい中国人の先生もいた。そんな一人二人を思い浮かべるだけで、排斥思想なんか遠いものとなる。

 

日本人にしたって、優しい日本人もいれば酷い日本人もいる。「○○人は悪い奴」なんて、ひとくくりに考えることは難しい。どうやったらひとくくりに考えられるのかわからない。

 

日本人の凶悪犯の記事ばかり読んで「日本人は悪い奴ばかりだ」なんて言っている人がいたら笑ってしまう。でも外国人に対してそれをやる人間がいる。中国人や韓国人による迷惑行為や犯罪行為についての記事は人気が高い。彼ら全員が悪人であるかのようなコメントが次々に書かれ、賛同者が群がる(反対する者はかなり少ない)。

 

もし自分をいじめる日本人と、助けようとする外国人がいたら、外国人のほうに逃げないだろうか。それでも日本人だけにこだわり、いじめる人間に向かっていくのだろうか。

 

この手のことをツイッターで書いても反応は薄い。人気のない話題なのだ。一人で戦っている感じがして寂しい。世界中のいろいろな国の人々と仲良くなるシーンを思い浮かべて自分を慰めている。

 

そうは言っても、僕は別に「外国人差別反対運動」みたいなのはやりたくない。特別に外国人を好んでいるわけでもない。ただ穏やかに生きていきたいだけだ。好戦的な人間が外国人であれば嫌うだろう。自分にとって心地よい人間と接していきたいだけだ。

 

博愛思想なんて持ち合わせていない。でも「自分の幸せ」を突き詰めていけば、それに近づくものではないだろうか。どんな人種であろうと、どの国の人であろうと、その人と一緒にいるのが楽しければ、その人と一緒にいたいと思う。

 

好きな人と一緒にいたい。それだけの話だ。思想も何もない。

 

【筆者の活動】

日記:https://note.mu/agimuse/m/m473817a36ecb

ツイッター:https://twitter.com/agimuse

ラジオ:あぎるラジオ - YouTube


スポンサードリンク
 

ひきこもりはクリエイターや商人になろう

f:id:agiru64:20191217220555j:plain

2019年の「あぎるラジオ」をねぎらってほしい。

 

そんな企画をpolcaで開始した。おひねり募集企画だ(2020年1月10日頃まで実施している)。

 

「あぎるラジオ」というのは文字通り僕のラジオ。このブログと同じように、社会不適応者の思いを音声で公開している。だから「ボイスブログ」と言ってもいい。

 

ラジオはYouTubeに投稿しているが、広告収益は一切ない。広告はチャンネル登録者が1000人以上いないと貼れないのだ。僕のチャンネルの登録者は120人ぐらいなので、遠く及ばない。

 

***

 

「お金を恵んでください」だと物乞い行為と見られ、違法性さえ帯びてしまうが、作品を公開して「面白ければおひねりを」であれば商売になる。大道芸人やストリートミュージシャンと同じだ。

 

一般的な労働ができないひきこもりは、こういうのをやってみるといいと思う。たとえ1円ももらえなくても、作品を世に示してお金を稼ごうとする行為は商売だ。あなたは商売をした。立派な就労であり、社会参加である。あなたはもうニートでもひきこもりでもない。

 

別にニートでもひきこもりでもいいのだが、それらであることに引け目を感じるのであれば、脱したほうがいいだろう。そのためには「商売」を始めるといい。雇われて働くことは応募から退職まで苦痛しかないが、作品作りは楽しい。

 

だいたい身分や職業なんて自称でいいのだ。公的には違うのだろうが、ほとんどの場合はでっちあげることができる。読み終えた本をネットで販売すれば「ネットで商売しています」と言える。利益が1円でもあるのなら、赤字の商売人よりは利益を出している。

 

メルカリやヤフオクで出品したら商人。ネットに動画でも文章でも絵でも投稿すればクリエイター。「自称クリエイター(笑)」などとバカにされるだろうが、クリエイトしている人なのだから、どこにも嘘はない。自己満足でいいのだ。

 

生活費を稼ぐとか稼がないとかいうのはまた別の話。僕がここで言いたいのは肩書きの話だ。ひきこもりはクリエイターや商人になろう。

 

【筆者の活動】

日記:https://note.mu/agimuse/m/m473817a36ecb

ツイッター:https://twitter.com/agimuse


スポンサードリンク
 

都会のひきこもり・田舎のひきこもり

f:id:agiru64:20191211233819j:plain

ひきこもりは都会のほうが暮らしやすいと言われる。人が多くて、多数派から外れた人間が目立たないからだ。

 

田舎のひきこもりはつらい。なぜなら近隣住民に陰口を叩かれるから。そんな話を聞く。しかし田舎ならではのメリットもある。親が車を持っているということだ。その車を借りて遠くに出かけることができる。

 

車はそれじたいが居場所になる。田舎には広い駐車場があるから、そこにとめて長居できる。そして遠くのショッピングモールにも行ける。ショッピングモールには一日中いても注意されない。フードコートはだいたい居心地がいい。

 

一方、都会では親が車を持っていないことも多いため、お金のないひきこもりの移動手段は徒歩と自転車だけになる。

 

「自転車なら5kmでも6kmでも移動できるじゃないか」と考える人もいるかもしれない。でもそんな元気な人間はあまりひきこもりにならない。こうして都会のひきこもりの生活圏は半径2kmぐらいになる。移動しないで済むのは楽ではあるが、何と言っても飽きる。都会に憧れる田舎のひきこもりは多いだろうが、こういう現実もある。

 

ひきこもりは住む場所を選べない。お金を稼げないから、だいたいは実家で生きていくしかない。都会に実家があれば都会暮らしになるし、田舎に実家があれば田舎暮らしになる。

 

都会のひきこもりは図書館や公民館や公園を転々としよう。転々とできる選択肢を持っていることが都会在住者の強みだ。田舎のひきこもりは車とショッピングモールをうまく利用して生き延びよう。

 

***

 

【polca企画実施中(2019年12月~2020年1月)】

 

【筆者の活動】

日記:https://note.mu/agimuse/m/m473817a36ecb

ツイッター:https://twitter.com/agimuse

ラジオ:あぎるラジオ - YouTube


スポンサードリンク
 

スポンサードリンク