30代で実家ぐらし、仕事が続かない男の日々(あぎるブログ)

1985年生まれの34歳。働けない、稼げない、人と接するのがつらい。noteで日記を公開している→https://goo.gl/Jrkznz

スカートを穿きたい男性の思い

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スカートを穿いて生活したい。

 

街でスカートの女性を見かけるたびにうらやましくなってしまう(特に丈の長いヒラヒラ・フワフワしたものにときめく)。でも僕は男性で、男性はスカートを穿かないことになっている。だから僕がスカートを穿いて生活することは難しい。

 

スカートを穿いて生活することは可能だ。警察に捕まることもない。ただ変人扱いされることは避けられない。衣服の股が分かれているかいないかで人生が変わってしまう。女性はズボンかスカートか、気分によって決められるのに。

 

以前、スカート姿で授業をする大学教授が話題になった。男性がスカートを穿いて働くだけでニュースになってしまうのだ。

 

***

 

僕は自分の部屋でスカートを穿く。ズボンからスカートに着替えると、解放されたと感じる。穏やかな気持ちになる。スカートは激しい動きに向いていない衣服なので、攻撃性が抑制されるのかもしれない。

 

スカートを穿くと心が静まっていく。優しい気持ちになっていく。そしてそういう自分自身が愛おしくなっていく。スカートを穿くと幸せな気持ちになる。

 

しかしその姿で外に出れば、幸せは吹き飛んでしまうだろう。散歩に出かけても、周囲の目を気にしてしまって、景色を楽しむどころではなくなるはずだ。

 

子供に「わー、あのおじさんスカート穿いてる~!」と叫ばれたり、大人にひそひそ話をされたりする覚悟は決めないといけない。仮に誰も気にしていなくても、自分が気にしてしまう。スカートを穿くことで大きな喜びを得られるだろうが、その代償も大きい。

 

僕は今、実家暮らしだ。姉も近所に住んでいる。彼らの前でスカート生活をすることは、僕にはできない。また僕の住む街は郊外だ。変人が少ない。この街でスカートを穿いて暮らしたら、たちまち有名人になってしまう。

 

僕は心も環境も、穏やかであることを好む。だからこそスカートが感じさせてくれる優しさに憧れるのだ。ところが僕は男性で、男性がスカートを穿いて生活したら、心も周囲も騒がしくなってしまう。

 

でも僕は、いつかはやらねばならぬと思っている。何だか戦いのようになってしまうのは不本意だが、この社会で、男性がスカートを穿いて生きようとすれば、それを免れることはできない。

 

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異性と付き合うということがわからない

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異性と付き合うということがわからない。

 

異性と仲良くなどなりようがないではないか。人は同性同士で固まるものだ。どこで何があったら異性と仲良くなるのか。

 

異性と話すことはある。でもそこから仲が深まる過程がわからない。普通、その場で話して終わりだろう。学校でも会社でも、何らかの集まりでもそうだ。街で見かけるカップルや夫婦というのは、いったいなぜあんなことになっているのか。

 

どこかで話す機会があって「今度食事でもしませんか」と誘うのだろうか。よくそんなことができるものだ。僕には違法行為をするぐらいの抵抗がある。

 

しかも誘う際には、相手に恋人や配偶者がいないかどうか気にしないといけない。もしいた場合、一対一になるようなことがあってはならない。同性ならこんなことはまったく気にしなくていいのに。

 

誰であっても気を使いすぎてつらくなってしまうのに、異性となると更に気を使わねばならない。これで仲良くなるなんて至難の業だ。自分の能力を超えている。

 

とはいえ、別に克服すべきとは思わない。一対一でなければ普通に談笑できるのだから、それで特に問題ないと思う。

 

何だか引っかかってしまうのは「異性と交際したことのない人間は劣っている」という価値観がこの社会にあるからだろう。逃れるのは難しい。

 

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労働は生きるエネルギーを奪う

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僕は、ひなたぼっこさえできれば幸せなのだ。

 

お日様はあたたかい。風は心地よい。空も草花も美しい。食べ物は安価で買える。インターネットには無料の文章や動画があふれている。図書館に行けば無料で無限に本が読める。現代日本はなんて恵まれているんだ。生きることは素晴らしい。

 

そう思えなくするのが労働だ。労働はあまりにも苦痛だ。まず決められた時間に決められた場所に行かなければならない時点で耐えがたい。仕事がない日でも「明日仕事がある」という思いに苛まれて憂鬱になる。労働は、いついかなる時も、僕の生きるエネルギーを奪う。

 

人生は楽しいもの。それを阻むのが労働。労働さえせずに済むなら僕は幸せになれる。近頃、以前にも増してそう思うようになった。

 

2018年4月にポスティングの仕事をやめてから働いていない。働かない日々は楽ではあるが、お金が入ってこない。したがって親にお金を借りて生きている。とても気詰まりであり、申し訳ないとも思う。

 

この状況を抜け出そうと考えて、求人広告を眺める。そして絶望する。すべての求人に興味がないのだ。仕方がないので「どの仕事ならギリギリ耐えられるか」という基準で選ぼうとする。しかし、そんな思いで仕事を選ぼうとしている自分にやりきれなくなる。生きるエネルギーが奪われていくのを感じる。

 

「雇われて働く必要はない」などと言って自営を勧める人がよくいる。インターネットに多い。以前は僕も乗せられていたが、最近はどうやら無理であると思うようになった。

 

僕にはクラウドソーシングも、ポイントサイトも、せどりも苦役だ。「お金のためにしたくもないことをする」という点で、既存の労働と何ら変わりがない。なぜ一部の人はこういうのをニートやひきこもりに勧めるのか。「自分ができたから他人にもできる」とでも思うのか。自分と他人の区別がついていないとしか思えない。

 

結局、雇われ労働も自営も「お金のためにしたくもないことをする」という点で同じなのだ。むしろ自営のほうがきついようにも思える。雇われ労働は、したくないことであっても、言われたとおりに動けばお金がもらえる。しかし自営はしたくないことをして、なお稼げる保証がない。

 

そういえば「したいことでお金を稼げ」という助言もよくある。僕のしたいことは「ひなたぼっこ」だ。書いていて笑ってしまった。これではどうしようもない。

 

もうあきらめて、雇われ労働をするのだ。求人広告を眺めよ。やりたくない度100で埋め尽くされたリストの中から、やりたくない度99の仕事を選んで応募するのだ。

 

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僕は渋谷ハロウィンを肯定する

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僕は渋谷ハロウィンを肯定する。あの無秩序なのがいい。10月31日の渋谷では、ドレスコードが消え失せる。狂った格好が許される。

 

コスプレ大会とは違う。コスプレ大会は完成度の高さが求められる。渋谷ハロウィンはそうではない。

 

僕もそれに乗りたいのだ。一度行って、奇妙な格好で歩き回りたい。何しろゾンビや血だらけの仮装者がいる場所だ。あれより奇妙な格好は、しようとしてもできない。

 

僕は静けさを好む。だからあのような人の多い、騒々しい空間はきつい。でも人が多くて騒がしいからこそ、羽目を外せるのだ。人混みと騒音は、羽目を外すためには不可欠なのだ。

 

また決して友人・知人とは行かない。そういう者がいては、普段の自分を忘れることができない。

 

あのクレイジーな群衆の中を、クレイジーな格好をして、一人で歩き回りたい。

 

僕は渋谷ハロウィンに期待している。人間にはガス抜きが必要だ。でも既存の祭りではガス抜きができない。昔からある祭りは衣装、太鼓の叩き方、山車の引き方、神輿のかつぎ方、踊り方など、全部決まっている。伝統の通りにやらないといけない。

 

こういう祭りは美しくはあるが、ガス抜き効果は薄い。でも渋谷ハロウィンは違う。好きな格好で歩くだけでいい。普段着でもいい。あの場に行くだけで参加したことになる。そういう祭りはなかなかない(既存の祭りは見物者になれても参加者になるのは難しい)。

 

渋谷ハロウィン。様々な問題点があって嫌う人も多いが、何とか続いていってほしい。

 

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女性の美しさ・男性の美しさ

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どうも男性というのは美しくないと感じる。

 

しかも加齢と共にどんどん美しくなくなる。特に中年になると、どうしてここまで美しくないのかと悲しくなる。単に肌に張りがなくなるからか。肥満が増えるからか。なぜ男性は美しくないのか。そしてどんどん美しくなくなるのか。

 

女性も自然状態では美しくない。髪がボサボサだったり、眉も整えていなかったりすれば、美しくない。けれども、髪と眉さえ整えれば、それなりに美しくなる。僕の感覚では、街で見かけるほとんどの若い女性は美しい。

 

中年に至ると美しくなくなるのは男性と共通しているが、男性よりはずっとマシであると感じる。街で50歳の男性10人と女性10人を集めれば、まず男性のほうが美しくない。

 

この差は何なのか。女性は自分を美しく見せる努力をするが、男性は何もしないからではないかと思う。

 

では男性が美しくなるための努力とは何なのか。髪を伸ばして、アクセサリーを付けて、化粧をすればいいのか。それもいいとは思うが、女性の真似という感じがする。もう少し男性ならではの美しさを求めたい。

 

筋肉を鍛えるのはどうか。僕は男性の筋肉が美しいとは思えない。むしろ嫌悪感がある。男性的な体つきが嫌なのだ。小さめのTシャツを着て、腕や胸の筋肉を誇示している男性を正視することができない。

 

僕は男性的なものを前面に出したくないのだ。筋肉を目立たせたくない。男性的な見た目をできるだけ隠したい。だから夏でもできる限り肌を覆っている。どんなに暑くても、人に会う時は七分袖の襟付きシャツだ。

 

しかしあまりに筋肉がないのも健康に良くない。現在の僕は骨と皮のような体型で、医者からも太ったほうがいい、筋肉をつけたほうがいいと言われている。

 

健康のために必要な筋肉は鍛えよう。でもあとは何をしたらいいのだろう。

 

女性が美しくあり続けるのは大変なことに違いない。しかし目指す方向はわかりやすい。女性の美というものの共通認識があるからだ。それが男性にはない。男性が美しさを求めようとすると、手探りで進むしかない。

 

何だか悲しげな結論に達してしまった。しかしこれは楽しいことかもしれない。決められた美しさに合わせるのではなく、自分好みの美しさを創造していくということなのだから。

 

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さすらいのひきこもり

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僕がよく行くコンビニのイートインは2階にある。店で買った商品を飲食するためのスペースだが、夕方に行くと中高生の自習室みたいになっている。商品を買ったのか買っていないのかはわからない。パソコンをカタカタ打っているスーツ姿の男性もいる。

 

店員が見回りに来るのを見たことはない。買わないで座っていても注意されることはないだろう。しかしもし注意されたら従わなければいけない。利用者の良識に委ねられている。

 

ふと考えた。うまい棒1本で粘ることができるのではないか。別にうまい棒を食べたいわけではないが、イートインを使う権利を得るために買う。「コーヒー1杯で2時間粘る」という話はあるが、うまい棒は10円だ。時代は変わった。

 

続いてスターバックスへ。店の前に椅子が置いてあるが、これはスタバの椅子なのだろうか。商業施設内の店舗のため、買い物に来た客が座ってもいい椅子にも見える。

 

店員に聞こうとも思ったが、店内はガラガラで、僕が座ることで迷惑がかかる状況とも思えなかったので座らせていただいた。その後は目の前に建つマンション敷地内の腰掛けへ。私有地だと思うが、開かれた道となっているため、住人以外が座ってもいいと思われる。

 

何だかグレーゾーンの椅子ばかり利用している。街中に無料で座れる場所があまりないのだ。日本は外国と比べて少ないと言われる。訪日外国人が困ることのひとつだそうだ。無料の腰掛けが少ない国・日本。なぜそうなったのだろうか。この点に関しては、低所得者が困るつくりになっている。

 

最後に駅前広場にある噴水へと向かった。ベンチに座ろうとしたが先客がいたため、近くの石の出っ張りに腰を掛けた。なかなか居心地が良かったが、近くの喫煙所から煙が流れてくるので、タバコ嫌いの僕には少しつらかった。

 

ひきこもりは体力がない。街に出ても頻繁に休む必要がある。街中の腰掛けから腰掛けへとさまよう。僕はさすらいのひきこもり。

 

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お金がなくて遠くに行けない劣等感と向き合う

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僕はお金を稼ぐことができない。だから遠くに行けない。電車に乗るお金、バスに乗るお金を用意することができないからだ。

 

徒歩や自転車でも体力があれば遠くまで行ける。でも僕の体は虚弱だし、鍛えたくもない(生きるのに必要な体力は保ちたいが、何十キロも歩けるような肉体に改造したいとは思わない)。

 

ヒッチハイクという手もあるが、車に酔うし、人と接するのが苦痛なので除外する(車内の人との距離が近すぎて耐えられない)。

 

僕は自分が遠くに行けないことに劣等感を持っている。これまでの人生で、海外どころか関西より西に行ったことがない。青森より北に行ったことがない。飛行機に乗ったことがない。

 

一般的に、あちこち移動する人は評価される。

 

しかし世界の偉人は移動範囲の広さによって尊敬されているわけではない。哲学者のカントは生まれた町から出たことがなかったと言われる。世界中の少なからぬ部族の人々もまた、生まれた地域から出ない。それによって見下されることはない。

 

陶芸家や刀鍛冶が工房にこもっているからといって馬鹿にされることはない。彼らの評価は、その作品によって決まる。

 

結局、人は内面や作品で評価されるのだ。近所から出られないからといって、人として劣っていることにはならない。近所でできることをやっていけばいいのだ。

 

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